クン・スチンの教示

クン・スチンの教示

宮本正夫(Tadao Miyamoto)

 

1. クン・スチンって誰?

見かけは極々普通のタイ女性。そのタイ女性に経歴を聞こうとしたことが何度かある。いつ頃から仏教を学び始めたのか? 動機は? どのような師についたのか? でもまったく語らない。公に知られているのは、仏教を説き始めたのは二十代の後半から。後にその教えが定期的なものとなり、お寺の講堂を日曜日の午後に三時間ほど借り、興味のある人達の為に説法を行うようになった。まったくのボランティア活動。職業としては、タイ国で一番といわれるチュラロンコーン大学でしばらく学んだ後、外国人相手にタイ語の語学学校を経営。それ意外私的なことは分からない。自分自身に対し何の執着もないのが、プライベートなことを一切語ろうとしない理由であろう。アビダルマ的に、「クン・スチン」と呼びえる「者」は存在しないと観ているからであろう。

 

今は自らの協会(Dhamma Study & Support Foundationが英語名)があり、(コロナ前は)そこで毎週末、数名の講師を従え、二・三百名の在家者相手に講演を行っている。(コロナ後はZoomでの説法に移行した。)彼女のこれまでの説法は、全て、録音・録画されており、ラジオ・テレビ・インターネット(http://www.dhammahome.com)などを通じ毎日配信されている。執筆も為すが、話すのが実にうまい。今は既に九十を超える歳だが、シッカリしている。言い間違えることなどない。論理性を重んじながらしゃべる。質問者・論客が誰であろうとも怖じけない。また彼女の過去の録音。どこを聞いても「時」を感じさせない。若い頃に既に悟りめいたものがあったからであろう。もちろん、そのようなことをほのめかすことなどまったくない。

 

クン・スチンは、自らの全人生を布教に捧げる。仏教の真髄を理解するが故に、今日の仏教界のフガイナサに焦りを感じるのであろう。名声や金銭的なものは一切求めない。(もともと裕福な家庭の出なのだが、)彼女をアーチャーン・先生と慕う人々が、布教の為の財政面をも含めた支援を行う。

 

外国語関係の活動を少しばかり紹介する。まずはNina Van Gorkom。ご主人が長くオランダ公使として日本・米国などの主要国で勤務。五十年程前に公使夫人としてタイ国滞在中に、クン・スチンと出会い、それ以来の弟子。シッカリとした書き手であり、入門書から専門書まで活発に執筆をこなす。そのほとんどは英語でありインターネットから無料でダウンロードが可能。次にDhamma Study Groupと呼ばれるものがgroups.ioに存在する。英語での仏教討論グループ。(簡単なメンバー登録で、即ディスカッションに参加可能。)クン・スチンの教示を西洋人なりの見地から突っ込んで議論する。このサイトを運営するオーストラリア人・英国人カップルは、クン・スチンの教示をもう五十年も実践している人達。誰でも自由に参加できる。協会の住所と電話番号(タイ語のみ!)は下の如く:

Dhamma Study & Support Foundation

174/1 Soi Charoen Nakhon 78

Daokhanong, Thonburi, Bangkok 10600

Tel: +66 (0)2468 0239

 

 

2. Paramattha Dhammaを観ろ!

クン・スチンの説法の骨子は、「アビダルマ(論)を理論的背景とし、日常生活のなかで念と智慧を培い、仏教の真髄を証す」である。学習の重要性を強調する。アビダルマなどを学ぶことが念・智慧生起の条件になり得ると説く。そして、使用頻度の一番高いことばは、「paramattha dhamma」。(Parama-・究極の、attha・意義、dhamma・現象。究極の現象・absolute realitiesと訳されるもの。それは、また、sabhāva dhammaとも呼ばれる。Sa-・自らの、bhāva・状態(を持つ)、dhamma・現象。) 「それらを観ろ!」というのが彼女の説くところ。すなわち、citta・cetasika・rūpaを個別的に観ろと言うのだ。見る事・聞く事・嗅ぐ事がcitta(神経現象)の例。怒り(dosa)・感情(vedanā)・記憶(saññā)がcetasika(精神現象)の例。視覚刺激・聴覚刺激・臭覚刺激がrūpa(物質現象)の例。それらは、マサに、今・ここでの瞬時・瞬時の現象。残念ながら、智慧なき我々にはそれらは観えない・現れない。例えば、「怒り」。一時間も半日も続く怒りを思うなら、それはparamattha dhammaとしての怒り(dosa)ではない。つまり一瞬に生まれては消え去る「cetasikaとしての怒り」ではない。

 

我々は、何十万回・何百万回と再起する同一種の現象を個別的に捉えることなく、それらの断片的な連なりを大まかにひっくるめ、「怒り」と想定するのみ。これでは、「我」が伴う。「『自分』が誰かに対して憤慨している」という具合。これでは、個別的にparamattha dhammaなど観てとれるものではない。「Paramattha dhammaを観ろ!我ではなく、無我なる念・智慧でもって観ろ!」耳にタコができる以上にクン・スチンは繰り返す。このparamattha dhammaとその無我性が理解できなければ、仏教の芯に触れることなどは、無理も無理も無理。これが彼女の説くところ。

 

 

3. 念と智慧

クン・スチンが用いる常套句の一つは、「念・智慧を日常生活の中で培え!」である。現象の一つ一つに気づくのが念(sati・mindfulness)。瞬時の音・瞬時の匂い・瞬時の甘さ・瞬時の硬さなどに気づくもの。「『我』の思い」とは何ら関わることなく、それらを瞬時に捉えるもの。そして、念が気づいた・捉えた現象の特相(lakkhaṇa・chracteristic)を見抜くのが・「無常・苦・無我」と貫くのが智慧(paññā・wisdom)。この智慧に関し、クン・スチンは、「それが何を知るべきかを、ハッキリさせよ!」と説く。智慧が知るべきものとは、citta・cetasika・rūpa。まさしく、今・ここで起こっている(はずの)「現象・dhamma」。それは「人」とか「物」とかの概念ごとではない。「私の怒り」とか「私の執着」とかでもない。少しでも「私が・私の」の思いが入れば、その時には智慧などない。また、他すべての現象と同様、智慧もまた無我。我でもって・意志でもって生起させたりは出来ない。

 

 

4. 念・智慧の無我性

どうしてクン・スチンは、念・智慧の無我性を説くのだろうか。世間一般が説く煩悩を除く方法とは、座禅・meditationなどを組み・心を澄ませるというもの。煩悩・心の汚れを抑え込むというもの(suppression)。しかしそれはブッダ自身が悟りに至る前に試み・悟りに導く修行形態ではない、と見定めたもの。ブッダが悟りに至る過程で修めた方法とは、この世と思しきもののマコトの特相(相・lakkhaṇa・characteristic)を観ること・理解すること。すなわち、実際に、今・ここで、「五感」と「いわゆる心」の六つの扉(dvāra・doorways)でジカに経験している(はずの)現象のいずれもは、(無常・苦であり、)無我でしかない、と観ること・悟ること。一瞬の執着・一瞬のイラダチ・一瞬の音・一瞬の臭い・一瞬の甘さ・一瞬の冷たさなどなどなどを、(無常・苦・)無我と見抜くこと。そして、それら現象・dhammaが無我なら、実践(bhāvanā・mental development)もまた無我。「コントロールできる!」とわずかなりとも思うなら、その瞬間において、正道から逸れる。仏教修行、ドップリと無我に浸るしか仕方のないもの。これが彼女の説くところ。しかしこのように説いても、それを聞き入れる人々は多くはない。「自分がここにいて・自分の心(mind)がここにあって・それをコントロールする!との我の思い」から、逃れることができないからだ。

 

(私が言えるのは、無我を見ようとする「我」を意識的に立ててしまえば、それが全ての仕事をこなす。いくら先へ進んだと思っても、無我を見ようとするその「我」のある限り、その「我」を除くことはできない。結果として、犬が自らの口で自らの尻尾をくわえようとするかの如き状態にハマり、無我を証かすことが不可能となる。)

 

(彼女の説法に訪れる人達の大方が問うのは、方法と結果。「実際にどのような方法でもって念・智慧を培うべきなのか。」「どのぐらいの期間育めば結果が出るのか。」この二つをシツコク問い続ける人達は、遅かれ早かれ、去って行く。「無我」の意味・意義が理解し得ないからだ。)

 

 

5. NāmaとRūpaの違いを観ろ!

「念・智慧」の記述において、曖昧にしておいた点がある。それは、それらが観るべき「対象(objects)」について。すなわち、(主に五感覚においての)nāma(神経・精神現象)とrūpa(物質現象)の区別について。定義的には、(簡単なものではあるのだが、)前者は何かを知る(perceive・experience)ことのできるもの。後者はそれのできぬもの。一瞬の見る事(seeing)はnāma。その対象である視覚刺激(visual object)はrūpa。一瞬の聞く事(hearing)はnāma。その対象である聴覚刺激(auditory object)はrūpa等々。テーラワーダの教義(的伝統)では、智慧の育成・ウィパサナーの実践において、智慧がその育成の第一段階として観・証すべきは、それら「nāmaとrūpaの違い」。(観・ウィパサナー・vipassanāは、接頭辞・vi-「ハッキリと」と語根・pas「見る」からなる。)その相違を観ることのできる智慧を、パーリ用語で、nāma-rūpa-pariccheda-ñāṇaと呼ぶ。(英語では、wisdom which discriminates between nāma and rūpa。)和訳としては「神経・精神現象と物質現象とを分別(し得る)智慧」で良いであろう。(「智慧」と訳し得るñāṇaは、paññāと同じ語根・ñā「知る」からなる。また、pariccheda・「分別・分離」は、接頭辞・pari-「完全に」と語根・chid「切る・分ける」からなる。)

 

クン・スチンが始終語るのは、日常での(何ら特別なことを行うことのない)念・智慧の培いにあって観るべきは、現象・dhamma。すなわち、nāmaをnāmaとして、そして、rūpaをrūpaとして観ること。例えば、eye-doorにあっては、seeingをseeingとして、そして、visual objectをvisual objectとして観ること。でも、これがいかに難しいことであるかは理解してもらえるであろう。今、目前で何が現れるであろうか。現れるのは、パソコン・コーヒーマッグ・机であり、また人などではなかろうか。でも、それらは、単なる概念ごと。パソコン・コーヒーマッグ・机・人がeye-doorで起こるわけがない。観るべきは、それら概念ごとを生起させるナマの現象としてのnāma(seeing)とナマの現象としてのrūpa(visual object)。そして、育むべきは、それらは相異なったものであるとの認識・理解、すなわち、智慧。

 

ゆえに、eye-doorのみでなく、ear-doorにあっての聞く事と聴覚刺激との相違。Nose-doorにあっての嗅ぐ事と臭覚刺激との相違。Tangue-doorにあっての味わう事と味覚刺激との相違。Body-doorにあっての触れる事と触覚刺激との相違。それら各々の違いが、如実に・ジカに、観・証されるべきなのだ。何の為か、と問われるなら、「自分」と思しきものを、(念・)智慧でもって、現象的に、nāma・rūpaに、バラバラにせんが為。すなわち、その何処にも「我」などはないと理解する為・悟る為。

 

このnāma-rūpa-pariccheda-ñāṇaをマイル・ストーン的に用い、聴く人々に向かって、このレベルの智慧を目指し、「念・智慧を日常の中で培って行け!」とクン・スチンは諭す。

 

 

6. Lakkhaṇaを観ろ!

上に関して、付け加えておくべきことがある。大切なことがある。それは、これまで日常での念・智慧の育成が重要であると述べてきたが、クン・スチン自身、それらを、日常において「頻繁に」経験せよ!とは言ってはいない。量よりも質を強調する。質とは、nāma・rūpa各々のlakkhaṇa(相・特相・characteristic)の認識。Lakkhaṇaをたずさえるのが現象・dhamma。ゆえに、lakkhaṇaを観るということは、現象そのものを観るということ。現象が観えるということは、現象としてのnāma、現象としてのrūpa、そして、それらの相違をも観ているということ。

 

もし、念・智慧が生起していると思える時に、lakkhaṇaと思しきものが現れることがなければ、その時に見ているのは、現象・dhammaではなく、概念・paññatti。(単に自分の頭の中で考えたこと。)例えば、ジカに・個別的に、「熱さ」・「硬さ」・「香り」などを知るのではなく、今「コーヒーマッグ」に触れていると思うのなら、それは単なる概念ごと。なぜなら、コーヒーマッグには、lakkhaṇaなど無いからだ。このあたりも、クン・スチンがしつこく説くところ。また、聴く人々が、「理解はできるが、証すのは難しい」と苦渋めいたコメントを、始終、為すところ。そのようなコメントに対し、クン・スチンが、「一生・二生などという時間単位で遂げられるものではない」と諭し、聞く人々に、忍耐を求めるところなのだ。

 

 

7. 共感することのない教え

クン・スチンが共感を覚えることのない実践方法がある。二つある。一つは、サマタ(samatha・瞑想)と誤解されているもの。後一つは、世間一般で広く行われている「いわゆるウィパサナー」。

 

テーラワーダ仏教におけるサマタへの傾倒は強い。(Samathaの語根解釈の一つsmaは「静まる」。)サマタ(いわゆる座禅・meditation)こそが悟りへの道と誤解されがち。でもサマタはブッダ以前にもあったもの。ハラッパ・モヘンジョダロの出土品に、座禅を組むヨガ行者を刻んだものもあることからして、北方から今のインドの地に入ったインド・ヨーロッパ語族が、先住民から学んだ修行形態に違いない。仏教はそれを実践・修習(bhāvanā)の一部として取り入れはしたが、それでもって悟り・涅槃に至ると説くことなど絶対にない。感覚刺激に弱いのが我々。それらに触れた瞬間、執着あるいは嫌悪などをもよおす。感覚刺激のない時空間を創り出すのがサマタ。サマタの間は感覚刺激への執着・嫌悪などないとのことで、瞑想の実践は賞賛される。でも瞑想状態から抜け出せば、感覚世界の奴隷状態に舞い戻り。この意味で、サマタは、感覚世界に対する煩悩・kilesaを断ち切る道ではない。

 

さらに、仏教修行。そのいずれもが、善でなければならない。クン・スチンがよく語るのは、「無心状態に没したからといって、その時のcittaが善・kusalaであるとは限らない。そのような状態は悪・akusalaでも起りうる」である。極端な例はオウム真理教であろう。極悪卑劣な行動を誘発する悪と関わった無心・放心主義。仏教は善の教え。卑劣極まりないテロリズムなどとは何ら関わるものではない。クン・スチンは、サマタ時のcittaがkusalaであるなら、それはそれで賞賛されるべき。しかし、「サマタなしでは、念・智慧は磨けない。サマタは念・智慧育成の土台」との主張は100%突っぱねる。彼女は、「日常生活の中で念・智慧が自然と生起する瞬時にあっては、必要十分な集中力(ekaggatā・concentration)がその時のcittaには備わっている。ゆえに、特別に集中力を磨く必要はない・サマタを修める必要はない」、と説く。(ブッダの存命時、出家僧達のみでなく、日常生活に追われる数多くの在家者達も、また、悟りを開くことができた、との経での記述からしても、この主張は妥当なもの。)

 

クン・スチンが共感を覚えることのない実践方法の後一つは、「ウィパサナー」と呼ばれ、今日広く行われているもの。これはテーラワーダ仏教の歴史の中で、極々近年に生まれてきたもの。直ちに結果なるものを求める西洋的メンタリティーの影響を受けた修習方法。カタチは色々。でも基本は(数日間の)リトリート・静修。(私自身の体験から言えば、)お寺などにこもり・世間との接触を断つ。参加者同士の接触も断つ無言の行。身体動作のペースを不自然にまで落とす。そこでの教示は、「何かを見たなら『見た』と・聞いたらなら『聞いた』と・歩く姿勢に気づいたなら『歩いている』と・座る姿勢に気づいたなら『座っている』と、言葉でもって、三度繰り返えせ!」である。このようなスローモーション状態を、その静修・retreatのあいだ、維持し続ける。

 

これがどれ程までにブッダの教えから逸脱したものであり、また、クン・スチンがどれ程にこの種の実践に疑問を呈するかは理解し得るであろう。禅における「百足・ムカデの喩え」を思い出してほしい。(ある日ムカデが、「自分はどうしてこんなにも上手に百本もの足をシンクロナイズさせながら歩くことができるのか」と思ったその瞬間、足を絡ませ、まったくもって前に進むことが出来なくなった。)スローモーション的に何を知ろうというのか。「我」でもって何を観ようというのか。(一秒の何百分の一で)起こっては消え去る瞬時・瞬時の現象(paramattha dhamma)。そのような不自然な状態でもって観ることなどは、無理も・無理も・無理。ブッダが目覚めたのはこの世のありかた・真理。そのようなゾンビ状態で看破し得るようなものではまったくない。

 

でも、実は、このような誤った教示の出所は教典なのだ。Mahā-satipaṭṭhāna-sutta(Dīga Nikāya・長阿含. 22)。これはテーラワーダ教典の中でも、非常に重要な経。そこで説かれているのは、念と智慧の育成方法。「立っている時には、『立っている』と気を配れ。座っている時には、『座っている』と気を配れ」等々の教示。しかし理解すべきは、経(suttanta・discourses)でなされているのは、すべて、「概念世界」(sammuti sacca・conventional truth)に基づいた教示。

 

実際はsuttanta pitakaにsammutisaccaですけど、paramatthasaccaも全部、その内容に入っています。誤解する人はsammutisacca のみ理解しています。正しく理解すれば、例:: 歩いている時に、paramatta sabbhaava が分かりながら、正く理解をします。

しかし、小人数のみparamatthasaccaとparamatta sabbhaavaが理解しています。

それを仏教の真髄、すなわち、「概念を逸脱した世界」(paramattha sacca・absolute truth)の理解にそのまま当てはめようとしても無理。仏教の芯を理解することなく、経の字面のみを唱えるのは愚業。概念を逸脱した世界を扱うのがアビダルマ。それを信奉するのがクン・スチン。彼女が、上っ面な経の解釈に基づいた「いわゆるウィパサナー」と呼ばれる修行形態を突っぱねるのは当然なこと。(誤解してもらいたくないのは、クン・スチン自身、経・suttantaでの教えを無視するものではまったくない。彼女の説法においての引用のほとんどは経からのもの。それにアビダルマ的解釈を施すのが彼女の説法スタイル。)

 

8. 無我性と中道

私が見るに、クン・スチンの教示は、臨済宗の開祖である臨済義玄(りんざい ぎげん ?-867)のそれと同じ。いわゆる「日常禅」。「今この時点での現象を観ろ!特別なことはするな!少しでも、修行めいたことをすれば、それは我。仏教は無我の教え。そこに我を持ち込むのは誤り」。これが、臨済とクン・スチン共々が説くところ。

 

易しいように見えて、これは実に、難しい。「何かをせよ!」と言われたほうが、よっぽどマシ。座禅でも荒行でも、何かを行える方がよっぽど楽。何もできないのはホント辛い。でも、ここが肝心。クン・スチンの教示は「何もしない!」のではない。状況はその逆。我でもっては何もできないからこそ、一時たりとも油断ができないのだ。何も特別なことができないからこそ、一瞬・一瞬が大切なのだ。英語で言うなら “Each moment counts.” 何もできないからこそ、これ以上真剣であり得ないと思える程に真剣でなければならないのだ。実に厳しく・難しい教え。これがいわゆる中道(majjhima paṭipadā・middle path)と呼ばれるものの特性。

 

更に付け加えれば、仏教は荒行を嫌う。それは悟りに導くものでないとキッパリと言う。悟りを開こうとしていた時に試みた断食・荒行は、役に立つものではなかったとのブッダ自身の体験・反省からくる。これと相対するのがチャランポランな修行。悟りを開くのに一番大切な念と智慧が無我であり、我でもって導くことができないのなら、日常好き勝手なことをしていてもOK。五戒などを守る必要もない。殺生をし・盗みをはたらき・他人のパートナーと交わり・嘘をつき・酒などを好き放題食らうともOK。無我なる念・智慧はそれでも生じる。仏教が誤解され易いのはこのような誤った無我性。マコト、我などはない。でも(上で述べたように、)我がないからこそ、日常にあって、これ以上に真剣ではあり得ないと思えるほどに真剣でなければならないのだ。これが中道の芯であり、日常禅が説くところであり、また、クン・スチン(と臨済)が聞く人達に始終諭すところなのだ。

 

 

9. Kusala Vs. Akusala

念・智慧の日常での育成を強調するクン・スチンではあるが、それら育成の「土台」となるものを大切にせよとも語る。それは、五戒などを守り、執着・怒り・無智などに根ざした悪・akusalaから遠ざかること。そして、善・kusalaを磨くこと。すなわち、日々の生活のなかでdāna・sīla・bhāvanāを培うこと。人の為を思って贈り物・施しを為し(施・dāna・donation)、生きとし生けるものに対し危害を加えることなく(戒・sīla・moral conduct)、慈愛などの奇麗な心を培い(修習・bhāvanā・mental development)、そして念・智慧を育む。それらの善き行為は、たとえるなら、念・智慧という未だひ弱な木を支える土壌。その木を大樹へと育てていく為には、その土壌をも肥沃にすべし! このような喩え・諭しでもって、クン・スチンは、あらゆるレベルでのkusalaの実践を、聞く人々に促す。

 

また、クン・スチン、kusala・akusalaの違いを説くだけでなく、kusalaを率先して実践する人。自らが他の人々に対して行えるkusalaの一番のカタチは布教。仏の教えがいかなるものかを伝えること。その布教の為には、自らの健康・身体などを返りみることもない。(彼女の1年間のスケジュール帳は、側近達が管理しており、彼女自身ではなく・側近達が自由勝手に書き込む。)クン・スチンの説法は、何十年にも及ぶ、このような生き方がその土台となっており、それが故に、響く。また聴く人々にも同じようなコミットメントを促す。よく、テーラワーダ仏教・小乗仏教、自らの悟りのみを説く教えと揶揄[やゆ]される。しかし、彼女の説法を聞く限り、そのような印象を受けることはない。「自分の為だけでなく、生きとし生けるものの幸せを願いながら、智慧の育成に努めよ!」これが彼女の基本メッセージ・テーラワーダの基本メッセージ。

 

 

10. ティーラ・レックラ・ノーイ

クン・スチンが用いる常套句の一つが「ティーラ・レックラ・ノーイ。」日本語に訳せば、「ゆっくり・ゆっくり、チョピリ・チョピリ。」これは仏教一般に関わるものだが、特に念・智慧の育成に関わる訓示。念・智慧は日常生活のなかで培われるべきもの。でも「我」でもって何とかし得るようなものではない。好き勝手に起こし得るようなものではない。知るべき対象としての現象(dhamma・realities)もハッキリと観えるわけでもない。結果もなかなか感じ難い。それ故に「焦ることなどのないように!」進歩・進捗のペースは、それこそ、ティーラ・レックラ・ノーイ(ゆっくり・ゆっくり、チョピリ・チョピリ)。

 

ゆえに、携えるべきは、測りも知れない忍耐。これがなければ、万事休す。「我でもって、修行めいたことを為せば、数ヶ月・数年で成果は出せる!」このような思いを抱けば、万事休す。仏教の実践。時間単位としては、輪廻レベルを意識しなければ駄目なのだ。つまり、「この世に生を受け・仏の教えに出会い・この世のうちに・悟りを成就する!」というよりは、「この世で、涅槃への道を誤りなく見定め、一歩でも二歩でもよいから前に進む。涅槃に何時たどり着けるかは分からない。でも、結果などは求めず・出来るだけのことはやる!」これ程の気持ち・心構えがなければ、とてもとても、念・智慧を日常のなかで培うことなどは、無理も無理も無理。進歩・進捗は、それこそ、ティーラ・レックラ・ノーイ。

 

 

11. 忍耐・khanti

確かに「日常での念・智慧の育成の可能性」を否定する人は多い。結果がすぐに現れるものではないが故に、失望する人々がいることも確か。でも日常での念・智慧の培いに専念していれば、これ以外に道はないとの確信が生まれてくる。菩薩(bodhi-sattva/-satta[菩提(悟り)・生き物])としての仏教の実践の意味が分かってくる。一生・二生などという時間単位ではないことも分かってくる。クン・スチンの説法を聞く人々は、ブッダの教えとは、そのように、計りも知れない長〜い・長〜い・長〜い時間単位での実践であることを理解している。結果を求めるのは「我の仕業」であるということも理解している。「我」は日常での念・智慧の育成を阻むものであることも理解している。持ち合わせるべきは、測りも知れない忍耐(忍・khanti・patience)であるということも理解しているのだ。(経の中でもそのあちらこちらで、「忍耐より優れたものは(この世には)ない(Khanti-yo paramaṃ na vijjati.)」と語られている。)

 

 

12. 無執着の教え

仏教。色々なカタチ・教えがある。それらが、「ゴータマ・ブッダ」と呼ばれる歴史上の人物の教えと直接に関わるものか否かを簡単に判断し得る方法がある、とクン・スチンは語る。もし、執着(attachment)を奨励するものなら、ブッダの真なる教えとは言い難く、執着から離れること(detachment)を説くのなら、それは彼のもの。これを判断基準とすれば、世間でなされている慣習・唱えられている仏教のほとんどは、ゴータマ・ブッダが説いた教えとはジカに関わるものでないことが理解できる。

 

簡単に言えば、見返り・御利益[ごりやく]を説くようものは、仏教の芯に触れるものではないのだ。心が安まりますよ・運が開けますよ・病気が治りますよ・家内安全になりますよ・良き伴侶に出逢えますよ・出世しますよ・財が増えますよ・極楽に昇れますよ・涅槃に至れますよ・あらゆる願いがかないますよ。それらは、全て、執着を助長するもの。Detachment(alobha)ではなくattachment(lobha)を促すもの。キツイようだが、見返り・御利益などを欲しがっては・望んでは、駄目なのだ。(また、良き人間になることなども仏教の目的ではないのだ!)得る為のみの実践は、ブッダの説くところのものではないのだ。100%無執着(alobha)を説くのが仏教。執着を、ほんのわずかなりとも、促すようなものではない。それが故に、見返り・御利益を強調するような教えは、真にブッダによるものかどうか、疑ってみることだ。そして、見返り・御利益、あるいは、善行の善果さえをも求める心を捨て去ることだ。そうでなければ、仏教の芯に触れることが難しくなる。このあたりも、クン・スチンが常々諭すところ。